マレー沖海戦/Naval Battle of Malaya
マレー沖海戦は、太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)初期、真珠湾攻撃に続いてマレー半島沖で決行された航空作戦である。シンガポール防衛のため出撃したイギリス海軍東洋艦隊に、大日本帝国海軍の航空機群が突如として襲いかかった。このマレー沖海戦によって、それまでの世界の常識であった大艦巨砲主義が終わりを告げることとなる。
マレー沖海戦は、太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)初期、真珠湾攻撃に続いてマレー半島沖で決行された航空作戦である。シンガポール防衛のため出撃したイギリス海軍東洋艦隊に、大日本帝国海軍の航空機群が突如として襲いかかった。このマレー沖海戦によって、それまでの世界の常識であった大艦巨砲主義が終わりを告げることとなる。
マレー沖海戦が生起する2日前の12月8日、大日本帝国軍がマレー半島北東部コタバルに上陸開始。この日本軍輸送船団を撃破するため、新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』を筆頭とするイギリス海軍東洋艦隊が出撃した。 当時は大艦巨砲主義、いわゆる大きな艦ほど強いとされる思想が中心で、作戦行動中の戦艦が航空機によって沈められることはないと考えられていた。さらに、イギリス軍は日本軍航空機を過小評価しており、また、イギリス空軍司令部がコタバル飛行場から撤退したこともあり、この時イギリス海軍東洋艦隊には上空支援は一切ない状態であった。 一方、大日本帝国海軍は、新鋭戦艦を主力とするイギリス東洋艦隊の動きを察知していた。しかしこの方面を担当していた艦隊は、主力となる戦艦『金剛』『榛名』が老朽艦であったことから、艦隊戦は避ける方針で対応が進められた。 12月9日、潜水艦『伊65』『伊58』がイギリス艦隊を発見し、10日早朝にかけて追跡するも、途中で見失ってしまう。12月10日6時25分、索敵と攻撃を兼ね、松永貞市少将が指揮する海軍第二十二航空戦隊(計85機)がサイゴン、ツドゥム基地から出撃した。 11時45分、先導する索敵機がイギリス艦隊を発見し、後世にも伝えられることとなるマレー沖海戦が開始された。航空機のみで、あえて行動中の戦艦を沈めることを狙いとした、常識を打ち破る海戦である。
12月10日12時45分、対空砲火をかいくぐった「九六式陸上攻撃機」が次々に爆弾を投下し、巡洋戦艦『レパルス』が被弾した。命中した1発の爆弾は居住区を貫通し下甲板で爆発。『レパルス』の艦内が激しい炎に包まれる。 イギリス東洋艦隊司令官トーマス・フィリップス大将は、日本軍航空機が雷撃できるとさえ思っておらず、空軍に掩護を求める気配もない。この時、シンガポールではイギリス空軍の戦闘機がただただ待機し続けていたという。 13時14分、そんなトーマス・フィリップス大将が座乗する『プリンス・オブ・ウェールズ』に2本の魚雷が命中。隔壁が破壊された『プリンス・オブ・ウェールズ』はいきなり傾斜し始めた。 一方、『レパルス』は、初弾以降は、巧みな操艦で日本海軍第二十二航空戦隊の攻撃を全て避け切っていた。しかし防戦一方であるこの状況を鑑みた『レパルス』のテナント艦長は、独断で無線封止を破り空軍に掩護を要請した。 13時37分、さらに「一式陸上攻撃機」26機がイギリス艦隊上空に到達、猛攻を開始する。回避し切れなくなった『レパルス』は魚雷を立て続けに受け、14時03分、ついに沈没。同様に被弾し続けた『プリンス・オブ・ウェールズ』は14時50分に転覆、艦尾から沈んでいった。この際、トーマス・フィリップス大将は戦死、テナント艦長は駆逐艦『ヴァンパイア』に救助された。 マレー沖海戦終了後、日本国内では、その戦果を発表するニュースと同時に、「英国東洋艦隊潰滅」という軍歌も流された。真珠湾攻撃に続いて常識を打ち破った戦術に世界が驚愕し、また、このマレー沖海戦によって、イギリスに支配され植民地化されていた東南アジア各国では独立の機運が高まることとなった。
日本海軍>> ▽航空機:損失6機 イギリス海軍>> 【沈没】:『プリンス・オブ・ウェールズ』『レパルス』