大日本帝国海軍 連合艦隊 :戦艦『比叡』
金剛型戦艦の2番艦『比叡/ひえい』は、イギリスで建造された金剛型巡洋戦艦『金剛』の技術を取り入れつつ、日本で起工・竣工した巡洋戦艦であった。艦名の比叡は、京都の比叡山に由来し、海上自衛隊はるな型護衛艦の2番艦『ひえい』にも継承される。『比叡』は後に、大和型戦艦のテスト艦として戦艦へと改造され、大日本帝国海軍連合艦隊に編入、太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)の主要な海戦に参加した。第三次ソロモン海戦にて戦没。
金剛型戦艦の2番艦『比叡/ひえい』は、イギリスで建造された金剛型巡洋戦艦『金剛』の技術を取り入れつつ、日本で起工・竣工した巡洋戦艦であった。艦名の比叡は、京都の比叡山に由来し、海上自衛隊はるな型護衛艦の2番艦『ひえい』にも継承される。『比叡』は後に、大和型戦艦のテスト艦として戦艦へと改造され、大日本帝国海軍連合艦隊に編入、太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)の主要な海戦に参加した。第三次ソロモン海戦にて戦没。
戦艦比叡は、イギリスのヴィッカース社によって設計・建造された金剛型巡洋戦艦1番艦・金剛をベースとして、日本の横須賀海軍工廠で建造された。1914年8月4日竣工時の艦種は巡洋戦艦であったが、その後、ロンドン海軍軍縮条約により4番主砲と一部の装甲が撤去され練習戦艦となった。 しかし、1936年にロンドン海軍軍縮条約が期限切れになったことで戦艦へと大規模改装。後に誕生する大和型戦艦のテスト艦となる。改装後の比叡において、特に艦橋構造物は大和型戦艦に似ていたという。そのため、戦艦比叡は他の姉妹艦とは艦橋の形状や艦影が明らかに異なっていた。 その後、プロトタイプとして運用された戦艦比叡で好評だった技術は、そのまま大和型戦艦にも採用された。 ■全長:222.0m ■全幅:31.0m ■乗員:1,222名 ■排水量:36,600t ■巡航能力 □速力:29.7kt □航続距離:18,150km(18kt) ■戦時最終兵装 □45口径毘式35.6cm連装砲:4基 □50口径四一式15.2cm単装砲:14基 □40口径八九式12.7cm連装高角砲:4基 □九六式25mm連装機銃:10基 □九六式13mm4連装機銃:2基 ■搭載機:3機 □水上偵察機
戦艦比叡は、太平洋戦争開戦時は第一航空艦隊の支援部隊として真珠湾攻撃に参加。その後も主要な海戦を戦った戦艦比叡であったが、第三次ソロモン海戦でその命運は尽きる。 1942年11月12日、戦艦比叡は挺身攻撃隊旗艦として、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を砲撃する任に就いていた。しかしこのとき、猛烈なスコールに巻き込まれたことで艦隊陣形が乱れ、守られるはずの比叡が前衛になってしまっていたという。 23時42分、そのような状態でアメリカ艦隊と会敵。対地砲撃用の三式弾を装填したままの比叡はやむを得ずそのまま射撃を開始した。このとき、一部の敵艦艇にダメージを与えたが、前衛で探照灯を使用し射撃したため集中砲火を受け、さらに味方の駆逐艦・五月雨からの誤射も受けてしまう。 85発もの砲弾を受け、艦橋が大破し指揮所に死傷者が続出した比叡は戦場を離脱、応急修理を急ぐが、その間もアメリカ軍からの攻撃は緩まない。空母艦載機による空襲を繰り返し受け続けた比叡はついに航行不能となり、放棄されることとなった。 この際、雷撃処分されたという説や、キングストン弁開放による自沈説があるが、詳細は不明とされている。
2018年1月、ガダルカナルの海底に戦艦比叡らしき隆起物が発見された。これはNPO団体「アジア太平洋英霊顕彰会」が海上で行ったソナー調査によるものである。戦艦比叡の沈没地点はソロモン諸島ラッセル島沖・南緯9度00分、東経159度分00分付近とされている。 2019年1月31日、マイクロソフト社の共同創業者ポール・アレン氏のチームの海底探査によって、985mの海底に比叡の後部船体が発見され、その映像が公開された。現場はアイアンボトムサウンド(鉄底海峡)と呼ばれる海域、いわゆる船の墓場である。 分断されている船体の前部約70mが発見できていないことから、比叡は火薬庫の爆発で轟沈したとも推測されているが、詳細は依然として不明なままである。
戦艦『比叡』が参加した海戦 | |
---|---|
真珠湾攻撃 | 米主力艦隊壊滅!太平洋戦争の始まり |
セイロン沖海戦 | インド洋で連合艦隊怒涛の攻撃! |
ミッドウェー海戦 | 太平洋戦争の勝敗を決定づけた海戦! |
第二次ソロモン海戦 | 終わりなきソロモンの攻防 |
南太平洋海戦 | ガダルカナル島を賭けた大艦隊戦! |
第三次ソロモン海戦 | 船の墓場と化すソロモン |