エピローグ:新たなる日本国の始まり
大日本帝国は太平洋戦争に敗れ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下で戦後処理を開始するが、アジア諸国では独立運動が活発になり、結果としてアジア解放という目的は達成されていった。そんな激動の時代のさなか、かつて殺し合った敵同士が同じ地で武器を持たず、初めて互いの価値観に向き合う。それは、新たなる絆の始まりでもあった。
大日本帝国は太平洋戦争に敗れ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下で戦後処理を開始するが、アジア諸国では独立運動が活発になり、結果としてアジア解放という目的は達成されていった。そんな激動の時代のさなか、かつて殺し合った敵同士が同じ地で武器を持たず、初めて互いの価値観に向き合う。それは、新たなる絆の始まりでもあった。
大日本帝国にとっての第二次世界大戦は「欧米に植民地化されたアジアを解放、自立させ共存共栄を目指す」という構想(大東亜共栄圏)を掲げ闘った大東亜戦争であり、日中戦争も含めたものであったとされている。 日本は連合国との戦争に敗れたが、その後、インド、フィリピン、ビルマ、インドネシア、ベトナム、ラオスなどのアジア諸国が欧米からの独立を果たした。日本軍による占領については批判の声もあり、一部の現地勢力との対立もあったが、日本の関与によって独立運動の機運が高まっていたのもまた事実だった。 残留日本兵として残り、インドネシア独立戦争やベトナム独立戦争などに参加し直接独立を支援する将兵が多数いたことからも、実際にアジア解放を目的として戦っていた日本兵がいたことが窺える。 また、終戦後に開かれた極東国際軍事裁判(東京裁判)では、インド代表判事ラダ・ビノード・パールが「イギリスやアメリカが無罪なら、日本も無罪である」と主張した。ほかにも、ビルマの独立運動家バー・モウが「日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない」と日本を高く評価するなど、肯定的な見方もあった。
終戦後の日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に置かれ混乱期を迎えたが、その真っ只中でも昭和天皇の存在は大きかった。1946年から行われた46都道府県の巡幸において、訪れた昭和天皇に日本国民が歓声を上げ敬服する姿は、当時のアメリカ人が抱く負けた側の指導者像に反しており、GHQも大いに驚いたという。 また、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが後年に執筆した「回顧録」には、昭和天皇との初会談において、命をも捨てる覚悟で戦争の全責任を負おうとする天皇の姿に骨の髄まで感激したと記されている。予想とは真逆であったその誠意と勇気に魅せられたマッカーサーは、さらに「日本の最上の紳士である」と昭和天皇に敬服した。 戦時、日本海軍と何度も戦った嫌日家のアーレイ・バークも、日本のホテル滞在時に受けた人を選ばぬ思いやりに満ちたもてなしの数々に、自身の日本人嫌いについて疑念を抱く。 その後バークは、日本人の価値観や日本史を知るため、旧日本海軍大将の野村吉三郎の元を訪れて週に一度のペースで講義を受けたほか、旧日本海軍中将の草鹿任一とも親交を深めるなかで、次第に親日家へと転じていった。 日本の占領状態からの早期解放や海上自衛隊の創設に尽力したバークは、後に勲一等旭日大綬章を授与された。死後、葬儀の際に遺体の胸に付けられた勲章はこの旭日大綬章のみだったという。バークの遺言によるものであった。 1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約発効により日本は主権を取り戻した。朝鮮戦争による特需もあり急速に経済回復を遂げた日本は、1954年の海上自衛隊誕生と同時に高度経済成長期を迎えることとなる。
1945年12月1日、日本の陸軍省は第一復員省に、海軍省は第二復員省となり、約660万人にも及ぶ海外残留日本人の復員・引き揚げ事業が開始された。このとき、復員輸送を担う艦船として第二復員省によって指定された艦は復員輸送艦(特別輸送艦)と呼ばれた。 【復員輸送艦:一覧】 ■空母:2隻 『鳳翔』『葛城』 ■重巡洋艦:1隻 『八雲』 ■軽巡洋艦:2隻 『鹿島』『酒匂』 ■駆逐艦:29隻 『夕風』『汐風』『波風』『神風』『響』『雪風』『春月』『宵月』『夏月』『花月』『竹』『桐』『杉』『槇』『樫』『楓』『欅』『初桜』『雄竹』『初梅』『柿』『樺』『蔦』『萩』『菫』『楠』『椎』『榧』『蓮』 ■潜水母艦:1隻 『長鯨』 ■敷設艦:2隻 『若鷹』『箕面』 ■他、多数の小型艦艇 1948年1月1日、復員・引き揚げ業務は厚生労働省復員局に引き継がれた。現在においても、戦傷病者や戦没者遺族の支援、旧日本軍の残務整理などを同省の社会・援護局が担当している。 また、終戦時点で、日本海軍の仕掛けた機雷が55347個、連合国軍の機雷が6546個も残されたままであったことから掃海業務も同時に進められた。 1950年開戦の朝鮮戦争では、北朝鮮軍の機雷に苦しめられた国際連合軍から要請を受け、特別掃海隊として掃海艇部隊を派遣した。この際の成果が国連軍に高く評価され、サンフランシスコ平和条約の条件改善につながったともいわれている。 1954年7月1日、海上自衛隊の誕生により掃海業務も移管され、さらに10月には第一掃海隊群が新設された。これ以降、海上自衛隊掃海隊群は国内外の掃海業務に従事しつつ経験を積み、現在では世界最高レベルの掃海力と評価されている。