大日本帝国海軍 連合艦隊 :駆逐艦『響』
大日本帝国海軍連合艦隊の駆逐艦『響/ひびき』は、吹雪型駆逐艦の22番艦。艦名の響は、音や声が空気に乗って伝わることを意味する。太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)では、主に護衛任務に従事した。3度大破するも終戦まで生き残った強運ぶりから、「不沈艦」や「不死鳥」などと形容された。終戦時は新潟で訓練などに従事しており、戦後はソビエト連邦へ引き渡され『ヴェールヌイ(верный)』に改名された。
大日本帝国海軍連合艦隊の駆逐艦『響/ひびき』は、吹雪型駆逐艦の22番艦。艦名の響は、音や声が空気に乗って伝わることを意味する。太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)では、主に護衛任務に従事した。3度大破するも終戦まで生き残った強運ぶりから、「不沈艦」や「不死鳥」などと形容された。終戦時は新潟で訓練などに従事しており、戦後はソビエト連邦へ引き渡され『ヴェールヌイ(верный)』に改名された。
駆逐艦響は1930年2月21日に舞鶴工作部にて起工、1933年3月31日に竣工した。吹雪型駆逐艦の分類ではⅢ型とも呼ばれる。主機は純国産の艦本式タービン2基を搭載。主砲は、荒天時にも対応可能な全周囲シールドを備え最大仰角を75度へ引き上げた50口径三年式12.7cmB型平射砲を採用した。 魚雷発射管は前艦型同様、一二年式61cm水上発射管を装備したが、魚雷は1935年頃から九〇式に更新され、さらに1943年に九三式魚雷(酸素魚雷)へ更新された。 戦争末期、響は対空機銃を増強したほか、対水上・対空警戒レーダーも装備したことで対空戦闘能力や索敵能力が向上した。 ■全長:118.0m ■全幅:10.36m ■乗員:219人 ■排水量:1,980t ■巡航能力 □速力:35.0kt □航続距離:9,260km(14kt) ■戦時最終兵装 □50口径三年式12.7cmB型連装砲:2基 □九六式25mm3連装機銃:4基 □九六式25mm連装機銃:1基 □九六式25mm単装機銃:14挺 □一二年式61cm3連装水上発射管:3基 □九三式魚雷:15本 □三式爆雷投射機:1基 □爆雷:36個 ■レーダー □仮称2号電波探信儀2型:1基 □三式1号電波探信儀3型:1基
駆逐艦響は、1933年3月31日、舞鶴海軍工廠にて竣工した。その後、太平洋戦争が開戦すると、響は第6駆逐隊の一艦としてフィリピンやアリューシャンにおける攻略作戦を支援。しかしこのとき、キスカ島近海にてアメリカ軍機の爆撃を受け大破、艦首を失う。そのまま沈没しそうになるも3時間にわたる応急修理で辛うじて浸水を食い止め、僚艦に曳航されながら日本本土に帰投した。 横須賀海軍工廠で新艦首を取り付けた後、駆逐艦響は太平洋戦争末期に至るまで長らく海上護衛で活躍するが、1944年9月5日、高雄沖で機雷に接触し大破。再び修理を余儀なくされる。この際、艦内で赤痢が蔓延していたこともあり、修理が完了したのは1945年1月20日頃であった。 呉海軍工廠で整備後、駆逐艦響は第二艦隊第二水雷戦隊第7駆逐隊へ編入され、沖縄水上特攻(天一号作戦)に参加することとなる。 1945年3月29日、戦艦大和以下、第二艦隊の艦艇と共に三田尻沖を目指す駆逐艦響であったが、周防灘を航行中、幸か不幸か、またしても機雷に接触し大破。響は一時航行不能となり沖縄水上特攻には不参加となった。
呉海軍工廠で修理後、響は警備駆逐艦に指定され、新潟へ。1945年7月1日、新潟港沼垂岸壁に係留され防空砲台となる。さらに機雷掃海における訓練などにも従事し、終戦当日はアメリカ軍機との対空戦闘を繰り広げていたという。 終戦後は、1946年10月まで復員輸送に従事した後、賠償艦としてソビエト連邦に引き渡された。その際、機関関連の指導において、ソビエト連邦側の乗員たちは日本の技術にただ驚くばかりであったという。 1947年7月22日、ウラジオストクへ回航後、駆逐艦響はヴェールヌイ(верный)へと改称された。艦名のверныйは、"真実"や"信頼"を意味するロシア語である。 その後、さらにデカブリスト(Декабрист)という艦名に変更され、練習艦に改造する計画が持ち上がるも費用の関係で中止。最終的には、1970年代まで標的曳航船として運用した後、ウラジオストク沖カラムジナ島岸にて、海軍航空隊の標的艦として処分された。 現在は、駆逐艦響と同じ艦名としては、海上自衛隊の音響測定艦『ひびき』が存在する。
『響』が参加した海戦 | |
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