大日本帝国海軍 連合艦隊
:駆逐艦『雪風』
大日本帝国海軍連合艦隊の駆逐艦『雪風/ゆきかぜ』は、一等駆逐艦陽炎型の8番艦として、1938年に佐世保で起工、1940年に竣工した。艦名の雪風は、雪のように舞う風を意味している。太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)では、多数の海戦を闘い抜いた歴戦の駆逐艦となり、"呉の雪風、佐世保の時雨"と称された。また、坊ノ岬沖海戦に至るまで一度も大きな損傷を受けることがなかったことから"奇跡の駆逐艦"ともいわれた。
終戦後は中華民国へ引き渡され、中華民国海軍駆逐艦『丹陽』として活躍したとされる。また、艦名の雪風は、海上自衛隊はるかぜ型護衛艦の2番艦『ゆきかぜ』に受け継がれた。
動画:映画『雪風 YUKIKAZE』
日本海軍:駆逐艦『雪風』の性能
駆逐艦雪風は1938年8月2日に佐世保海軍工廠にて起工、1940年1月20日に竣工した。日本海軍の艦隊決戦型駆逐艦の集大成である陽炎型は、甲型駆逐艦とも呼ばれていた。主機は純国産の艦本式タービン2基を搭載。主砲は、荒天時にも対応可能な全周囲シールドを備えた50口径三年式12.7cmC型平射砲を採用した。
水雷兵装は九二式61cm2型4連装水上発射管を装備。竣工時より九三式魚雷(酸素魚雷)を搭載していたほか、九三式水中探信儀(アクティブソナー)や九三式水中聴音機(パッシブソナー)も装備していた。
戦争中期以降、雪風は対水上・対空警戒レーダーを装備したほか、当時の最新兵器である電波探知機も装備、さらに対空機銃を増強し索敵能力や対空戦闘能力が向上した。
■全長:118.5m
■全幅:10.8m
■乗員:239名
■排水量:2,752t
■巡航能力
□速力:35.5kt
□航続距離:9,260km(18kt)
■戦時最終兵装
□50口径三年式12.7cmC型連装砲:2基
□九六式25mm3連装機銃:5基
□九六式25mm単装機銃:14挺
□九二式61cm2型4連装水上発射管:2基
□九三式魚雷:16本
□九四式爆雷投射機:1基
□九一式爆雷:36個
■レーダー
□仮称2号電波探信儀2型
□三式1号電波探信儀3型
□電波探知機
■ソナー
□九三式水中探信儀
□九三式水中聴音機
奇跡の駆逐艦『雪風』の戦歴
雪風は、白露型駆逐艦・朝潮型駆逐艦・陽炎型駆逐艦・夕雲型駆逐艦・丙型島風など、大日本帝国海軍連合艦隊の主力駆逐艦約60隻の中で、唯一終戦まで生き残った駆逐艦である。また、雪風は、主要な海戦にも参加しながら、ついに終戦まで一度も大きな損傷を受けることなく、且つ様々な海戦や小規模の戦闘で戦果も上げている。
太平洋戦争緒戦において、雪風は、フィリピンやインドネシアでの上陸支援に参加。その後、初の艦隊戦となるスラバヤ沖海戦を闘うこととなる。
スラバヤ沖海戦(1942年2月)
雪風は、第二水雷戦隊の一艦としてスラバヤ沖海戦で魚雷戦を行うが、戦果はなかった。戦闘終了後、沈没した敵艦エレクトラやデ・ロイテル乗組員の救助作業にあたり、約40名を救助したとされる。また、3月3日にアメリカ海軍潜水艦パーチと交戦し撃破した。
ミッドウェー海戦(1942年6月)
雪風は、ミッドウェー海戦で、攻略部隊護衛隊として輸送船団の護衛を担当した。防空戦闘において雪風の被害はなかったものの、日本海軍は空母4隻を失い撤退。このとき、雪風の乗組員は炎上する空母赤城を視認していたという。
南太平洋海戦(1942年10月)
雪風が所属する第16駆逐隊は、第三艦隊機動部隊本隊として南太平洋海戦に参加。襲来する敵空母艦載機と交戦し空母を護衛した。そんな雪風の貢献もありつつ日本海軍は大勝、アメリカ軍に「史上最悪の海軍記念日」と言わしめた。
第三次ソロモン海戦(1942年11月)
雪風は第十戦隊に編入されガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃に参加。しかしその最中にアメリカ艦隊と遭遇し第三次ソロモン海戦が勃発した。激しい砲撃戦のなかで、雪風は、味方艦と共同でアメリカ海軍駆逐艦カッシング、ラフィーの2隻を撃沈した。
その後は、大破した戦艦比叡の護衛に従事し100機以上もの敵軍機と交戦、主砲弾374発、機銃弾1150発を消耗したと記録されている。また、至近弾や機銃掃射によって雪風も小破、探照灯や2番砲塔左砲が使用不能となり、発電機にも不具合が生じたとされる。
ガダルカナル島撤収作戦(1943年2月)
雪風は、ガダルカナル島撤収作戦に輸送隊として参加した。アメリカ軍による激しい攻撃で多くの駆逐艦が損傷するなか、雪風は3度にわたる過酷な任務を無傷で完遂させた。この作戦で約1万人の日本兵を救出し、雪風の名は海軍内で一層高まった。
ビスマルク海海戦(1942年3月)
雪風は、ニューギニア方面の戦力増強のため実施された作戦で輸送船団の護衛を担当した。極めて無謀な作戦であり、案の定、敵軍による猛烈な空襲を受けビスマルク海海戦が生起した。輸送船団は全滅、護衛駆逐艦も半数が沈没するという絶望的な状況であったが、雪風は生き永らえた。
コロンバンガラ島沖海戦(1943年7月)
雪風は、コロンバンガラ島沖海戦に警戒隊として参加。敵艦隊から集中砲火を受ける場面もあったが、幸運にも直撃弾はなかった。その後、第二水雷戦隊と共同で魚雷戦を行い、アメリカ海軍軽巡洋艦2隻撃破、駆逐艦1隻撃沈、3隻撃破という大戦果を上げた。さらに、コロンバンガラ島への輸送作戦も成功させた。
レイテ沖海戦(1944年10月)
雪風が所属する第十戦隊は栗田艦隊に編入され、サマール沖海戦でアメリカ艦隊へ突撃、駆逐艦ホーエル、ジョンストン、サミュエル・B・ロバーツを撃沈した。このとき、雪風の寺内正道艦長は、ジョンストンから脱出した敵兵へ発砲した機銃手を見て「逃げる者を撃ってはならぬ」と制止し、攻撃中止を命じた。敵兵のなかにはアーネスト・E・エヴァンス艦長もおり、雪風の艦橋に立つ一人の将校が敬礼するのを見て涙したという。
坊ノ岬沖海戦(1945年4月)
雪風の戦歴において最も熾烈だった坊ノ岬沖海戦では、約400機ものアメリカ軍航空機による猛攻を受けた。ほぼ全ての味方艦が撃沈破されていくなか、雪風は、艦長自身が艦橋の窓から首を出して定規で爆弾の軌跡を読み、航海長の左右の肩を蹴飛ばして舵を命じることで攻撃を回避、ほぼ無傷で戦いを切り抜けることができた。
佐世保へ帰還後に行われた船体の調査で、実は米軍のロケット弾が命中していたことが判明したが、被弾箇所が幸運にも食糧庫だったため信管が作動せず爆発しなかったとされている。こういったエピソードもまた、奇跡の駆逐艦と呼ばれた所以である。
終戦後:中華民国海軍駆逐艦『丹陽』
終戦後、雪風は復員輸送船として約13000人の日本兵や民間人を本土に送還した。そのなかには、後の著名漫画家である水木しげるもいたという。
1947年7月6日、雪風は戦後賠償艦として正式に中華民国へ引き渡され、さらにその翌年、艦名を丹陽へ変更された。丹陽とは、赤い夕陽や朝陽を意味するという。
1949年5月、中国人民解放軍による上海解放作戦が開始されたため、非武装であった丹陽は台湾へと回航された。その際、蒋介石総統が乗艦したとされる。
その後、丹陽は再武装、中華民国海軍の主力艦として、長年にわたり中国人民解放軍と戦い続けた。1959年8月3日には中国人民解放軍コルベットを1隻撃沈、1隻撃破、1964年5月1日の戦闘では12隻からなる船団を撃退したとされている。
その他、様々な任務で活躍した丹陽は、老朽化から1970年に軍を除籍となり、翌年に解体された。太平洋戦争の激戦をくぐり抜けた奇跡の駆逐艦雪風は、台湾で静かにその寿命を終えたのだった。
駆逐艦『雪風』の艦内神社・慰霊碑
駆逐艦雪風の艦内神社は三重県伊勢市にある皇大神宮だったとされる。
1982年3月21日、広島県呉市の旧呉海軍墓地・長迫公園に「第十七駆逐隊之碑」と刻まれた慰霊碑が建立され、雪風と共に当時を戦い抜いた英霊が祀られた。また、江田島市の海上自衛隊第1術科学校には、雪風の主錨や舵輪、壁掛け時計が展示されている。
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