Ormoc Bayww2:1944年12月2日~3日

オルモック湾夜戦/Battle of Ormoc Bay:多号作戦

オルモック湾夜戦:多号作戦(レイテ島増援輸送作戦)

太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)末期、レイテ沖海戦で大きな戦果を上げたと認識した大日本帝国海軍は、レイテ島西海岸の都市オルモックへの増援輸送を目的とした多号作戦を発動。その第七次作戦を遂行中、レイテ島北西オルモック湾にて駆逐艦同士の戦闘が勃発した。後に、この海戦はオルモック湾夜戦と呼称された。別名、オルモック湾海戦

オルモック湾夜戦での各国の参加艦船

【日本海軍】 ■指揮官 「山下正倫中佐」「宇那木勁少佐」 ▼駆逐艦:2隻 『』『』 ▽第153海軍航空隊  VS 【アメリカ海軍】 ■指揮官 「ジョン・C・ザーム大佐」 ▼駆逐艦:3隻 『モール』『アレン・M・サムナー』『クーパー』 ▽魚雷艇群

レイテ島への増援輸送・多号作戦

大日本帝国海軍・連合艦隊司令部は、レイテ沖海戦で敵空母7隻を撃破したと報告するなど、戦果を過大に認識し、戦局を日本有利と楽観視していた。この流れで日本軍は、ルソン島からレイテ島へ増援輸送を行い、レイテ島の連合国軍戦力を一気に殲滅するという計画を立てる。レイテ沖海戦直後の1944年10月29日、多号作戦と呼称されたレイテ島増援輸送作戦が開始された。 多号作戦は、第一次、第二次、第三次、第四次と連続で遂行され、多くの艦船が大量の兵力や物資を輸送した。しかしその船団のほとんどは途中で空襲を浴びることとなり、まともに揚陸を成功させるのは奇跡に近かった。 第五次作戦は空襲を受け失敗、第六次作戦では魚雷艇に襲撃され船団全滅。非常に厳しい状況のなかで決行された第七次作戦は、11月30日に輸送船3隻、12月1日に輸送船2隻での揚陸に成功と、連合国軍の襲撃もなく概ね順調であった。第七次作戦での最後の輸送は、船団護衛を第43駆逐隊所属の駆逐艦『竹』『桑』が担当することとなった。 一方、アメリカ軍は、多号作戦の妨害を、第六次作戦のあたりから空襲ではなく水上艦艇による襲撃に切り替えていた。そして新たな妨害戦力として、アメリカ海軍第7艦隊は、駆逐艦『モール』『アレン・M・サムナー』『クーパー』と魚雷艇群からなる第120駆逐群を差し向ける。

日本軍第43駆逐隊vsアメリカ軍第120駆逐群

12月2日23時00分、オルモック湾に接近した第120駆逐群を日本海軍機が発見し、爆撃を開始。投下された爆弾が至近距離で爆発した『アレン・M・サムナー』で火災が発生し、『モール』も損傷した。このとき空襲を行ったのは、多号作戦支援を命じられた第153海軍航空隊だったとされている。 12月3日0時30分、第120駆逐群が横陣隊形でオルモック湾に入り、距離11000mで日本艦隊を発見。まず『クーパー』が砲撃を開始し、これがオルモック湾夜戦の幕開けとなった。一方、第43駆逐隊もアメリカ艦隊を捉え、まず敵に近い『桑』が魚雷を発射、砲撃戦に突入した。 しかし集中攻撃を受けた『桑』は、戦闘開始から9分で大破し炎上。艦長の山下正倫中佐は艦ごと体当たりを命じる。炎に包まれながら突撃を敢行する『桑』であったが、最後は魚雷艇の攻撃を受け沈没した。 続いて、第120駆逐群は『竹』への一斉攻撃を開始する。『竹』は高速航行をしながら12.7cm高角砲、25mm機銃を撃ちまくり、さらにタイミングを見計らって酸素魚雷2本を発射した。魚雷は『クーパー』に直撃し、大爆発を起こした『クーパー』は火柱を上げながら瞬く間に沈没した。 戦闘は続き、ついに『竹』も『モール』の砲撃を被弾。前部機械室に命中した砲弾は不発だったが、浸水し左舷に30度も傾斜した。しかし果敢に反撃し続け、『モール』も高角砲弾を複数受け損傷することとなった。依然として日本軍機による空襲も行われるなか、第120駆逐群は戦況を不利と判断し、撤退を始めた。 第43駆逐隊は辛うじて輸送船団を守りきり、第七次作戦は無事に成功した。また、詳細は不明だが、このオルモック湾夜戦のなかで他に敵魚雷艇2隻を撃沈したという記録もある。

オルモック湾夜戦での各国の被害状況

日本海軍>> 【沈没】:『桑』 【中破】:『竹』 アメリカ海軍>> 【沈没】:『クーパー』 魚雷艇2隻 【小破】:『モール』『アレン・M・サムナー』

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